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さらに,その運動を関係させる座標系もしくは規準軸のいかんによって、言いかえると運動が翻訳される記号のいかんによって、運動は異なった仕方で言い表される。絶対は直観においてでしか与えられないということができるが、反対に絶対でないところの他のものは、ことごとく分析の範囲へ入ってくる。 直観とは、対象そのものにおいて独自的であり、したがって言葉をもって表現しえないものと合一するために、対象の内部へ自己を移そうとするための共感を意味している。 それと反対に分析とは、対象を既知の要素、言いかえると他のもろもろの対象とも共通な要素へ還元する操作である。したがって分析を施すということは、一つの事物を何か他の事物の言葉で表現することである。 このようにして、いっさいの分析は翻訳であり、記号への展開であり、つぎつぎに見地を定め、研究される新しい対象と、既知のものと信じられている他の対象との間に、できるだけたくさんの類似点をその見地から書きとめて、一つの再現にまとめることである。 分析は対象を包み込もうとしながらも、その渇望は永久に充たされずにその対象の周囲をまわらざるをえぬ運命を負わされており、いつまでも不完全なその再現を完成するため見地の数を限りなく増していき、いつまでも不完全な翻訳を完全なものとするために不断にその記号を換えていく。こうして分析は無限に続けられていく。 ところが直観が可能であるならば、それは一つの単純な動作なのである。 〈持続と意識〉 生きるということは老いゆくことである。しかしそれはまた、間断なく糸巻へ糸が巻きつけられていくことにたとえられてもよいであろう。なぜならわれわれの過去は、われわれの跡をつけてきて、その途上、現在を拾い上げてはたえず大きくなっていくからである。 それゆえ、意識とは記憶を意味している。意識的存在者にあって、まったく同じ瞬間は二つと存在しない。 もっとも単純な感情をとり、それを一定不変と想定し、人格全体をこの感情に吸い込ませてみよう。この感情に伴う意識は、相続く二瞬間の間、自己同一にとどまることはできない。なぜなら第二の瞬間は第一の瞬間だけではなく、その残した記憶をもつねに含んでいるからである。 まったく同じ二つの瞬間を経験しうるような意識は、記憶を欠いた意識であろう。そういう意識は、たえず滅んではまた生まれるものであろう。それは無意識以外の何ものと言えるであろうか。 それゆえ無数の色合いをもって、一つの色合いから他の色合いへ、次第に感知しにくい濃淡の度合いによって移っているスペクトルの心像を、比喩として用いたほうがよいのであろう。 つぎつぎとその一つ一つの色合いに染まっていく感情がスペクトルを流れ通っているとすれば、この感情の流れは、一つずつが続く色合いの先触れとなり先立つ色合いを包摂していく色合いの漸次的変化を経験することであろう。 しかしこの場合に継起するスペクトルの色合いは、依然として相互に外面的な関係にある。 それらの色合いは並置されており、空間を占めている。ところが純粋な持続とは、並置、相互の外在性、延長の観念をすべて閉め出すものである。 〈経験主義と理性主義〉 人格が統一性をそなえていることは否みようもないことである。 しかしそのように主張しただけでは、人格という特異な統一の独自性については少しも教えられないのである。 われわれの自我が多をそなえていることには私も同意する。しかしこれは、他のどのような多とも少しも共通点をもたない多であるということが理解されねばならない。 一般的に言って、われわれは知識のために知識を得ようとめざしているのではなくて、それは立場を決めるため、利益を引き出すため、つまり、ある関心を満足させようがためなのである。われわれがたずねているのは、知ろうとする対象がどの点までこの事物であり、またあの事物であるのか、既知のどの種類に属しているのか、どのような種類の行動、姿勢、態度をわれわれに示唆すべきものであるかということである。 そういう種々の可能的な行動や態度は、ともかくもきっぱりと決定された、われわれの思考の概念的方向なのであって、われわれはそれに従っていくよりほかはない。 概念を事物へ適用するというのは、まさしくそのことなのである。 概念を対象へ適合させようとすることは、要するにその対象をどう取り扱いうるか、対象がどう役立ちうるかを問うていることにすぎない。ある概念を対象へ貼り付けることは、その対象がわれわれに示唆すべき行動なり態度なりの種類を精確な言葉で表すことなのである。 そこで本来いうところの知識は、すべて一定の方向へ向けられており、一定の観点から見られたものなのである。→03 |
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